城下町は <歴史・都市・テレビ>
戦国期以降、大名の居城を中心に形成された都市で、大名領国の首都としての性格をもつ。
幕藩体制の解体によって消滅したが、近現代の主要都市のほとんどは旧城下町を母胎としている。
南北朝動乱期、在地領主は軍事施設として峻険な山頂や丘陵などに山城を築き、麓の居館の周辺に家子郎党の屋敷集落を形成したが、彼らは平時には農耕に従事する態勢にあり、町屋の発達はみられなかった。
室町期に至り守護大名領国制の展開に伴い、かつての国府や水陸交通の要地に守護所を設け、守護町を形成したが、居館の周囲に一部の給人の土居屋敷を巡らした屋形町であった。
なお守護町のうち戦国城下町に進展しえたのは、今川氏の駿河府中、武田氏の甲斐府中、大内氏の周防山口、大友氏の豊後府内、島津氏の薩摩鹿児島などがある。
このように守護の戦国大名化がみられる一方で、守護代・国人層のなかから成長した戦国大名は、前代の山城から比較的低い平山城へ移って城郭の規模を拡大し、専門武士団を常置するとともに、領国経営・軍事力強化のために近隣の市町を吸収し、遍歴の巡回職人を御用職人集団に編成するなど、物資調達態勢の整備に努めたから、16世紀後半には漸次城郭の周辺に町場が形成された。
とはいえ、戦国期の城下町は士庶の居住区分も明確でなく、商業も市町による定期市の段階にあり、家臣団も支城を単位とする軍事編成がとられており、本城下への集住は限定され、なお農村に居住する者が多かった。
近世城下町の先駆をなすのは1576年織田信長の近江安土であって、地子免除に加え、楽市・楽座、関所の撤廃などを令して商工業者の誘致を進めたが、短期間で終わった。
幕藩体制の解体によって消滅したが、近現代の主要都市のほとんどは旧城下町を母胎としている。
南北朝動乱期、在地領主は軍事施設として峻険な山頂や丘陵などに山城を築き、麓の居館の周辺に家子郎党の屋敷集落を形成したが、彼らは平時には農耕に従事する態勢にあり、町屋の発達はみられなかった。
室町期に至り守護大名領国制の展開に伴い、かつての国府や水陸交通の要地に守護所を設け、守護町を形成したが、居館の周囲に一部の給人の土居屋敷を巡らした屋形町であった。
なお守護町のうち戦国城下町に進展しえたのは、今川氏の駿河府中、武田氏の甲斐府中、大内氏の周防山口、大友氏の豊後府内、島津氏の薩摩鹿児島などがある。
このように守護の戦国大名化がみられる一方で、守護代・国人層のなかから成長した戦国大名は、前代の山城から比較的低い平山城へ移って城郭の規模を拡大し、専門武士団を常置するとともに、領国経営・軍事力強化のために近隣の市町を吸収し、遍歴の巡回職人を御用職人集団に編成するなど、物資調達態勢の整備に努めたから、16世紀後半には漸次城郭の周辺に町場が形成された。
とはいえ、戦国期の城下町は士庶の居住区分も明確でなく、商業も市町による定期市の段階にあり、家臣団も支城を単位とする軍事編成がとられており、本城下への集住は限定され、なお農村に居住する者が多かった。
近世城下町の先駆をなすのは1576年織田信長の近江安土であって、地子免除に加え、楽市・楽座、関所の撤廃などを令して商工業者の誘致を進めたが、短期間で終わった。
update:2010年03月16日
